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 廣坂物語               TOP
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 廣坂 物語 
 History of the Hirosaka family and Masami.


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

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   Vol−101

   MASAMI カー アーカイブ  Vol.2

  
   1984年〜1986年











                              (2000年記)
 




 












































  

 








 全日本選手権挑戦4度目、ようやく雑誌等でも情報に取り上げられる様に
 なって来た。 今回のマシンはコブラ3PSとなっているが、これはコブラのパーツ
 を多く流用して、私が製作したALF−10だった



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1985年 全日本選手権 

 8月8日、早朝全日本選手権会場である万博会場へと向った。ここは
 1970年に万国博覧会が開催されその後もエキスポランドという名称で
 遊園地のみが残されて、正美、光美等が好きで何度も訪れた所だった。
 小さい頃、エキスポランド と言えなくて、エキストランボと言っていた。

 レースは、9日から練習が始まるが、今回は大阪支部のホストという事で我々も
 コースの設営等を手伝う事となった。

 ここは自宅より1時間少しで通える距離ではあったが、やはりホテルに泊まる
 事で気分も変り、ビッグレースに参加するという緊張感が得られる為に、あえて
 会場の近くのホテルに宿泊する事となった。 しかしこれがあとでレース人生
 最大の失態をする事となった。

 8月9日は、受付後練習が行われた。昨年に引き続きカーペットコースでの
 レースだが、屋外でのカーペーットは始めてで、かなりフィーリングが違い、皆
 少し戸惑いがあった様だ。

 今回こそは何とか優勝を狙いたいと大胆にも考えていた。マシンも高麗選手
 と同じ4WDを使用しようかとも思ったが、やはりオリジナルを使用したいとの事
 で、コブラ3PS改のALF−10を使用する事となった。

 そして練習での結果はあまり良く分からなかったが、まあまあであとは出たとこ
 勝負かな? と言うような状況だった。 ただ私は全日本選手権を出場を
 重ねる度に少しずつ上位に近づく事で、正美自身も従来には無い大きな
 プレッシャーを感じる様になり、ドライブにも緊張が見られる様になって来たのが
 少し気がかりとなっていた。

 8月10日いよいよ大会一日目予選が開始される。ここまで準備等で私の疲れ
 もほぼ極限に達していた。 ホテルで目が覚めた時、時計を見て驚愕!
 8時を過ぎていた。 大変だ!8時から受付開始。ここからは20分くらいは
 かかる。ビックリして隣で寝ていた正美をたたき起し、大急ぎで会場へ...

 もうすでに受付は終了し予選が始まる所だった。組合せ等は昨日に決まって
 いる為に、今日の受付は参加の確認程度だったが、危うく棄権とされるところで
 理事長にお願いして何とか参加を認めて貰った。 周りの仲間達も大変心配
 してくれた。こんな時に現在の様な携帯電話があれば、もっと早く教えて貰えた
 かも知れない。 これ以後はレースの時には必ず2個以上の目覚まし時計と
 仲間達と目覚めの確認を取る事とした。

 そして辛うじて予選に参加する事が出来たが、この様な状態では、事前の
 準備も不完全で、正美自身も相当の動揺があり、全く良い所が無く終わって
 しまった。また光美に至っては、1ラウンドは準備が出来ずキャンセルとして
 しまった。

 最初につまずくと全てが後手後手となってしまう。 このままでは優勝どころか
 決勝進出も危うい。もう光美にも何もしてやる事が出来ない。彼もミスが
 連続して後ろから数えたほうが早い所でうろうろしている。

 そして第2ラウンドでは、順位を12位まで上げたが、まだまだ本調子では無い、
 決勝は8台のみだ。私も正美も動揺していた。もう光美どころでは無い。私は
 光美に、すまん!今回はもう諦めてくれ、と頼んだ。光美も何も文句は言わ
 ずにお兄ちゃん頑張ってと応援してくれた。
 
 そして何も解決策が見つからないまま、第3ラウンドが開始された。あとは
 正美の運に頼るだけ...

 第3ラウンドが始まると何か空模様が怪しくなって来た。 これは来るぞ!
 皆避難の準備を始めた所、激しい夕立が降って来た。勿論レースは中断。
 カーペットは水浸し。レース続行は不可能と判断された。 そして今日のレース
 は2ラウンドまでは成立で、明日は別の場所で新たにコースを作るという
 前代未聞の案が出てきた。

 パンチカーペットは水に濡れると、ボロボロになり使用出来ない為に、レイアウト
 はほぼ同じで、アスファルトのコースを作ろうと言う事だった。


 8月11日(日) 決勝日
 昨夜は一昨日の失態の為に、友人より目覚まし時計を借り、目覚ましを
 3つ、そして用心の為ホテルにモーニングコールをお願いしたが心配で眠れず
 結局は一睡も出来なかった。

 今日は遅れない様にと6時には会場入りをした。そしてオフィシャルの判断を
 待った。結果昨日からのカーペットでのレース続行は可能と判断された。
 そして大会委員長でもあり、関西支部長の朝田氏より、特に今回の役員は
 関西勢が多い為に、皆に別の場所にコースを作れるか?との問いがあった。

 よし移動だ! 我々は一斉に動いた。この辺りは関西気質、文句は多いが
 一旦決まると、何も言わなくても皆一致団結して事を進める。 常に常設
 コース等が無く、駐車場等で特設コースを作っていた我々は、慣れたもので
 あった。瞬くまに新しいコースが完成してしまった。

 そして昨日には2ラウンドの予選は成立しているが、ベストラップ方式では、
 この結果が全く意味が無くなるという事で、これまでの結果を活かせて、ヒートを
 組み直し、GPカーレースで採用されている勝ち上がり方式が取られる事と
 なった。

 8名ずつのヒートから、3名の勝ち上がりとなる。私達は勿論この様な方法は
 始めての体験となった。正美は予選では、12位だった為に、Aグループ、そして
 準決勝と2回勝ち抜かなければならない。各レース間のインターバルは16分間
 これは電動では大変な事だ。

 光美はこの時点で122位、Fグループとなり、ここから勝ち上がって行くのは、
 もう不可能と判断。見切ってしまった。

 そしてAグループ(準々決勝)では、4位までが上位進出。レースは4分間。
 まずは少し危ういが何とか3位で通過、そして準決勝。決勝は8名で予選
 の1、2位は決勝へシードされている為に、各ヒート上位3名のみの通過と
 なる。正美はどんどんと調子を上げて来た。やっと本来の正美らしい走行が
 出来るようになって来た。
 そして準決勝では、高麗選手との同組となったが、正美が1位、高麗選手が
 2位となり総合で3位での決勝進出となった。 

 いよいよ決勝、これまでシードされていた選手は走行回数が少なくコースが
 変更された為に不利の様に思えた。予選を勝ち抜いて来た選手は路面
 状況等が良くわかっている為に有利となる様に思えた。

 決勝レースは、1ラウンドのみそして横一列のスタートだ。いつもスタートには
 自信を持っていた正美はいきなりトップに躍り出て快走する。高麗選手は
 少し出遅れたようだが、直ぐに上位に上がって来た、しばらくはトップを走行する
 が、やはりプレッシャーか? 凡ミスをしてしまった。そして高麗、真田選手に
 抜かれ3位を走行。高麗選手は後続をどんどんと引き離して行った。正美は
 3番をキープしていたが、今度は2位の真田選手がクラッシュをして、2位に
 浮上、そしてそのままゴールとなった。

 正美は一度のミスを大変悔やんだが、私は残念ながらもしあのミスが無かった
 ところで、正美は高麗選手には勝てなかった。終わってみれば高麗選手は、
 全車を周回遅れとしている。まだまだ我々の力は遠く及ばない。今の実力は
 ここまでだ。と言った。正美は妙に納得した様だ。 よし来年こそは! 

 ママはおめでとうとは言わなかったが、良かったね! と...そして3位、2位
 と来たのだから後はもう優勝しか無いね?


 今回使用したボディは選手権での最初で最後となった、パパデザインの
 パパ塗装だった。 左はABC、右にはマサミの文字を描いてみた。 


 コブラ3PS こと ALF−10


 ALF−9より引き継いで来たリアサスシステムをさらに改良。モーターマウント部
 が上下とロール方向に自由に動く構造。ダブルダンパーとカーボンスタビで
 ロール調整等を行う。


 フロント部は、コブラのものを使用。フリクションダンパーとカーボンプレート
 サスペンションで、プログレッシブ効果を出す。そしてフロントはステンレスの
 スタビを採用(カーボンはソフト、ステンレスはハード)
 3mmアルミ六角ビスは、たかたにオリジナル。


 4mmのカーボン棒をヤスリとサンドペーパーで細く加工したサスアームピン。
 気合が入っていた。


 フロントダンパーはグリスの粘度のみで調整する、フリクションダンパー


 リアーもフリクションダンパーだが、キャップの締め具合でOリングを締め付けて
 硬さを調節する事が出来る。



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 雑誌の記事











 またしても涙を呑んだ85年だった。 しかし明らかに前進はしているという実感
 は感じる事は出来た。 ただやはり関西では情報が非常に少なく、関東の方
 へも出て行かなければ、ならないのか? と感じていた。

 しかし資金的に大変苦しく、レース参加も年々少なくなって行くのが、大変
 心配だった。

 そして、翌1986年春、大きなニュースがほぼ同時に二つも入って来た。
 一つは、今年からオフロードの全日本選手権が開始される事。 もう一つは
 1/12の世界選手権にJMRCAがツアーで選手を募集し、引率してくれる
 という事だった。

 オフロードは私は個人的にはあまり好きではなかったが、全日本選手権となると
 やはり参加したほうが良いと思い、とりあえず予選だけでも参加しようと思った。
 しかしオフロードカーは何も持っていないし、レースにも参加した事は無い。

 しかし、チームの仲間が、2WD、そして4WDを持っているので、これを我々に
 貸してくれるとの事で、レースの時だけ借りることとなった。 マシンは2WDは、
 KYOSHOのスコーピオン、そして4WDは同じくKYOSHOのオプティマだった。

 そして世界選手権参加...勿論私達は参加したい。しかし先立つものが..
 費用は一人ツアーで20万円以上、色々と他の物を含めると100万円は必要
 との事。勿論我々には借金はあっても、お金は無い。 これ以上借金も出来
 無い。 でも行きたい...



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 オフロード 全日本選手権 関西予選
 
 1985年は、あまり多くのレースには参加する事は出来なかったが、今年は
 1/12世界選手権(ラスベガス)、1/12全日本選手権(駒沢公園)
 そして1/10オフロード全日本選手権(千葉フタバサーキット)とビッグレース
 の参加を予定する事となった。

 各レース共参加に関しては、金銭的な問題も多くあったが何とかなるだろう。
 まずは一番始めにオフロードの予選がある。 5月11日奈良県の生駒山に
 あるコースにて予選が行われる事となった。
 
 お遊びでは少しオフロードをやった事はあるが、本格的なレースは初めてだ。
 セッティング等も殆ど分からないけれど、まあ予選位は何とかなるだろう..と
 軽く考えていた。

 そして友人より2WDはスコーピオン、4WDはオプティマを借り受けた。
 あまり使用していない為に整備が必要という事だった。 車を見たところ、
 そんなに走りこんだ形跡は無い。またパーツ等も殆ど無く、タイヤも付属して
 いるものだけだった。

 10(土)明日のレースに備え車の整備に取り掛かった所、前日より不覚にも
 風邪を引き、39度位の熱が出てきて作業が出来なくなってしまった。

 このままでは車はバラバラでレースに参加する事は出来ない。私は正美に少し
 休み、夜までに回復しなければ予選は諦めて欲しいといった。 タイムリミット
 は夜12時。

 そして暫く横になって眠った。私は普段薬は殆ど飲まない為に、風邪薬等
 を飲むと車を運転出来ないばかりか作業も出来なくなる。
 
 そして夜10時頃目を覚ました。少し頭が痛くぼけているが、何とか作業は
 出来そうな為に、力を振り絞って作業を再開した。 もしこの機会を逃したら
 2度と全日本選手権に参加出来る機会は無い。

 そして朝4時には、全ての準備を終え生駒に向って出発した。車2台と
 バッテリー等の軽装備だった。

 そしてコースへ着いてびっくり、大変多くの参加者が来ていた。確か200名
 以上の参加者がいたと思う。

 勿論中にはエキスパートもいるだろう。正美は始めてのレースの為、上位を
 狙わなくても良いので、予選通過(20位)までに入れば良いので確実に
 安全に走行出来れば何とかなるだろう。と言った。

 参加者が非常に多い為に、レースも短縮され予選も2回しか行われなかった。
 この頃には正美も雑誌等に多く取り上げられて関西では有名となっていた。
 しかしオフロードのレースは初めてと言うことで多くの参加者が注目した。

 そして結果は? 2WDで優勝、4WDでは3位となり、皆を驚かせた。
 私達もオフロードは殆ど走行した事が無い正美がここまで健闘出来るとは
 思わ無かった為にびっくりした。
 そしてまずは全日本選手権の出場権を得ることが出来た。

 そして、僅か5、6分だけ走行したマシンを返却。その後夏過ぎまでは、
 オフロードは走らせる事は無かった。

 もしこの時に予選に参加出来なかったら、その後の正美の進路は大きく
 変わっていたのでは? と思う。



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  世界選手権への挑戦

 1/12 世界選手権 ラスベガスにて。
 




 次はアメリカでの世界選手権参加だ。こちらは予選等は無く、お金さえ
 払えばツアーに参加出来、世界選手権に参加する事が出来る。
 ワークス等はチームで参加する為に良いが、個人参加では全く勝手が
 分からずに、個々に参加する事は難しいが、JMRCAよりツアーが組まれ
 エントリーから、ホテルの手配まですべて行ってくれる為に大変参加しやすい。

 まずは資金集め、とは言っても私にとっては大きなお金を調達する事は
 非常に難しい。大きな借金を抱えている身で、海外等は殆ど誰も認めては
 くれない。とりあえずは身近にあるものをすべて売り資金とする。周りのチーム
 のメンバー達も大変協力してくれた。そしてママは父(有名な染色デザインの
 先生)に相談をしてくれた所、お金を貸したり出す事は出来ないが、Tシャツ
 のデザインをしてやる。そしてこれを販売して資金を作れ。と言って桜の花の
 入ったTシャツを100枚作ってくれた。

 これをカンパとして仲間達に1枚¥5,000として販売した所、瞬く間に
 すべて完売となった。これでとりあえずは、旅費は何とかなった。

 マシンは昨年に引き続き改良を進めて来たALF−11。メカはフタバよりの
 サポート。バッテリーはパックバッテリーを10本ABCホビーからサポートを
 受ける事が出来た。

 そしてモーターは色々な人に尋ねると、やはり国産のモーターでは通用しない
 トリニティが良いと言う。しかしこれは3万円もする。しかし思い切って1個を
 購入する事となった。そして一応の準備が出来、出発が迫った頃、ママが
 私に正美にもう1個モーターを買ってやって! と3万5千円を私にくれた。

 レース用モーターは1個じゃ心細いだろう、そしてもう一つ上のランクのモーター
 がある事をママは知っていた。そしてコツコツと貯めたへそくりを出してくれたの
 だった。

 正美は、ママありがとう! 僕は世界チャンピオンになってママに家を買って
 あげるよ!(笑) と言った。


 ラスベガスへ出発

 8月9日 成田空港で集合、日本選手団はJMRCA木村理事長も見送り
 に来られ、結団式を終えロスへ向って出発。 私は1976年、以前の仕事で
 ブラジル、パラグアイ等へ行って以来、10年ぶりの海外となった、正美は
 勿論始めての渡航となった。
 
 荷物は一人20kgまでとされていた為に、二人で40kg。 かなり厳しい
 状態だったが、大きなスーツケースを2つ用意して詰め込んだ。幸い気候は
 暖かいと言うことで衣服は少なくて済むが、全行程10日間という事で、やはり
 それなりに荷物は多くなる。しかしこの時は別に手荷物を少し持って行ける
 事等は知らなかった為に、かなりの荷物を省略した。

 世界選手権は当然始めての経験の為勝手が分からず大変に不安で
 あったが、同じ仲間で岡山からはプラトピアの安田選手、そして関西からは
 ABCの多根井選手、そしてサンワの伊藤選手等が同行した為に少しは
 心強かった。

 成田空港を午後に出発、日付変更線を超えるために一日逆戻りして、
 同日の朝にロサンゼルス空港に到着。そして飛行機を乗り換えて、ラスベガス
 へと向う。 1時間程でラスベガスへ到着。大変暑い。

 それから貸切バスにて会場でもあるホテルへ向う。 今回の会場はホテル内の
 宴会場に特設カーペットコースを作りレースを行うと言うこと。 同じホテルに
 宿泊する為に大変楽だと思った。

 そしてホテルに到着。ビックリ仰天大変大きなホテルで、大きなカジノやプール
 まであるレジャーホテルだ。こんな所でレースが出来るのはやはりアメリカならでは
 と思うと同時に大きなプレッシャーも感じた。

 大変大きなホテルの為、部屋から会場まではかなりの距離があり、カジノを
 通り、プールの横を通って会場へ行く、という不思議な状態だった。

 夕食まではまだ時間もある為に正美と少し表を散策しようとホテルの外に
 出たが、大きな道路があるだけで周りにはホテル以外は殆ど何も無い状態で
 物凄く暑い。10分も外には居られない。早々にホテルは逃げ込んだ。ホテル
 には大きなカジノがあり、選手や関係者の人達も遊んでいた。

 そして部屋に戻り荷物を整頓しようとトランクを開けてびっくり玉手箱。
 大事な送信機のスティックが二本とも折れていた。送信機のスペアー等は持って
 いないし、これはフタバが正美専用に製作して頂いた特殊なもので、一般には
 販売されていない。

 何とか修理しなければ...しょうがないので送信機を分解したところ、スティック
 の根元が外れただけで、特に破損している所は無さそうで何とか復元する事が
 出来た。 送信機はもっと厳重に梱包して輸送しなければと反省した。

 レストランで食事をして部屋に戻り私は荷物の整理や車の整備を始め。
 正美は直ぐにベッドに横になり、いびきをかいて眠ってしまった。いつでも
 どこでも眠れるのが正美の特技?なのかも知れない。飛行機も国際線は
 始めてにも拘わらず殆ど寝ていた。 私も何時でも何処でも眠れるが、
 正美にはかなわない。

 さあこれから始めての10日間もの長いレース。 しっかりと体調を整えなければ
 ならない。

 8月10日 受付

 今日は受付及び車検が始まる。受付と同時に送信機の電波のチェックが
 行われる。 アメリカでは日本と違った周波数が使用されている為に、使用
 出来ない周波数もあるようだ。この検査では電波の正確さも検査され一部
 の選手の電波に問題があると言う事でなにかもめていた様だが私には良く
 分からなかった。

 もうコースは出来ている予定と聞いていたが、まだ作業中で殆ど進んでは
 いなかった。明日から練習が出来る筈なのに..

 他の選手達も多くが会場に集まって来た。私達は殆ど面識も無く知らない
 人達ばかりで、隅の方で小さくなっていた。多くの有名選手等も居たようだが、
 私達はあまり情報等も無く良く知らなかった。

 高麗選手が、マイク・リーディ氏に歓迎されて挨拶をしていた。私はこの時に
 はじめてリーディ氏を見た。これまで少し雑誌等で見た事はあったが...
 勿論、話をする事も無くただ遠くから眺めているだけの神様の様な人だった。

 正美も知っているのは、J.ジョンソン選手位だった。勿論話をしたも事無いが
 (当然正美は英語を話す事が出来ない)それがかえって怖い者知らずか?
 プレッシャーは感じていない様子だった。

 明日からの組合せが発表されていた。高麗選手が最終15ヒートで正美は
 その前の14ヒートに組み合わされていた。この時は世界選手権では、有力
 選手は最終2ヒートにシードされる事は知らなかった。私達は当然後のヒート
 の方が有利な為に、ちょっとラッキーな気分となった。

 何度もコースを見学に行ったが、一向に作業は進んでいなく、これでは明日の
 練習は出来ないのでは? と不安になった。しかし会場は大変広い、宴会場
 といっても、半分しか使用していないのに端がかすむほど広い。

 8月11日 自由練習

 朝8時集合時間にコースへ行くと、なんとコースが完全に出来上がっていた。
 昨夜徹夜でもしたのだろうか? またコースは大変大きく少なくとも私達が
 今まで経験した中では一番大きく、また奥行きが大変に深く、一見複雑な
 コースでは無いが、斜めに走るストレート等、大変トリッキーなコースに感じた。
 
 そして操縦台が低いために遠くへ行くと大変視界が悪くなる。ラバコ選手の様に
 2mを超える選手と正美は165cm位では、大きなハンディとなる。
 私は、日本のチームマネージャでもある、石神氏に何か台を使用しても良い
 のか?を聞いてもらった。すると世界選手権の規定では、身長160cm以下
 だと台を使用出来るとの事で、正美はだめと言うことだった。

 そして練習が始まった。 自由練習の為何時でも何度でも走行は可能だが
 意外と皆はあまり走行はさせない。 カーペットのグリップが上がるのを待つ
 のか? そして長くも走行しない。正美はいつでも多く走行させたがる。
 しかし今回のレースは従来と違って、公式練習があり予選が9ラウンドそして
 決勝と大変多く走行しなければならない。私達のもちもの、モーター、バッテリー
 ではこれだけ多くは、走行する事は出来ない。

 かなり節約をして行かなければならない。モーターは全部で10個、バッテリーも
 新旧あわせて20本(パックバッテリー)だけだ。これを上手く使いまわさないと
 いけない。練習でもどんどんと走行出来る状態ではないのだ。モーター等も
 メンテが出来ない為に、走行回数を制限しなければならない。
 そして、タイヤも多くは無い。

 とにかく走るしか無い。 皆に先がけて練習を開始する。皆は軽く流している
 様に思えるが、正美はすでに全開走行を始める。当然8分間は走行出来
 ない。しかしモーターやバッテリーで何処まで伸ばせるのか、データが無い為に
 全く分からない。 とにかく今日は全開で車のセッティングに集中しよう。

 見た限りではラップ等もそんなに遅くは無い、車の挙動も良い。ただどこまで
 スピードを落とさないといけないのか? これが問題だった。

 また、ドライビングスタイルが他選手達と全く違う事も良く分かった。他の有力
 ドライバーは、かなりゆっくりとしたハンドリングで、コーナーを比較的大きく
 曲がる走法だが、正美はとにかく忙しくステアリングを切り、コーナーを小さく
 曲がるのが特徴だ。今回のコースは180度ターンが多い為に、正美は他の
 選手よりかなり小さく短い距離を走行する事が出来るのでは? と考えた。

 そして一日目の練習は、周囲の事は何も分からなかったが、それなりに
 終わった。 明日はコントロールプラクティス?? レースの組合せで練習走行
 をするとの事、これも始めての経験となる。

 正美のとっては、始めての海外レースの為、やはり言葉の障害がかなり違和感
 があるようだ。人(外国人)と話す事も出来ず、またアナウンスも殆ど分からない
 これがレースでの障害にならなければ良いが...

 8月12日 公式練習
 
 今日は予選での組みあわせにより、電波のテスト、そして計測器の発信機の
 テスト等がレース形式で行われる。 スタートは横一列の同時スタートとなる
 為に、スタート後の第1コーナーがヘアピンの為に、多くの車が殺到し、多くの
 クラッシュが起きる、ここが最初の難関である。 コントロールプラクティスでは、
 明日からの予選に備えて、モーターやギア比、タイヤ径等の選定をする。

 コントロールが始まると、正美のヒートには多くの速い選手がいる事に気が
 付いた。皆殆どミスも無しに速いスピードで走行を続ける。 正美にとっても
 周回遅れ等は殆どない為、また皆のペースも速い為に走り易いヒートだと
 感じた。

 まわりの状況等はあまり良く分からない為に、速いのかどうか?は良く分から
 なかったたが、我々なりにはそこそこの仕上がりで明日からの予選を迎える事
 となった。

 8月13日 予選1日目

 いよいよ予選の開始となった、正美のヒートは後の方の為に、皆の走行を
 ゆっくりと観察出来る。 最初のほうは皆ミスも多く、まだまだ様子見と言う所
 か? 予選の集計は全9ラウンドの予選中ベストのラウンドの記録が最終結果
 となる為に、最初からあまり無理をする選手は少ない。

 そして正美の出走が近づいてくると、周りの選手達も少しづつ観戦が多くなって
 来る、この時に始めて最後の2ヒートに有名選手がエントリーされている事を
 知った。そこに正美もシードされていてのか?昨年度の全日本選手権の2位
 の結果が考慮されたのかも知れない。

 レースがスタート、いきなり正美が飛び出し先頭に立ち快走する。正美はいつも
 全開走行だ。当然8分間は持たないだろう。これは後のレースの為にまずは
 どこまで走行出来るのか?を知る為にあえて全開走行する様に伝えた。

 しかしカーペットのグリップも差ほど良く無い為に意外とバッテリーが持つ、6分
 を過ぎてもスピードが落ちない、7分30秒以後も速いスピードで走行する事が
 出来、このヒートでトップでゴールをした。そして記録もこれまでではトップの記録
 の筈だった。

 しかし公示された記録を見て愕然とした。1周のミスカウントがあり、かなり順位
 が下位となった。 私はプリンター付きのストップウオッチを持っていた為に、その
 記録を持って、石神マネージャーと共に計時についてのクレームにオフィシャルへ
 行った。するとオフィシャルは、計時には間違いは無い、今はコンピュータを使用
 して計時をしている。それに”日本人がそんなに速く走れない!”と言って認め
 られなかった。 我々は引き下がるしか無かった。 この一言が正美にとっては
 大変なショックであり、正美の闘魂に火を付けた。 正美はいつか必ず見返
 してやる! と、心に誓った様だ。

 勿論故意ではなかっただろうが、良い走行を見せただけに不運だった。レース
 を見ていた、他の人達も正美はトップだったのでは? と首をかしげた。
 しかし逆にこの事がある意味正美が少し皆の注目を浴びる事にもなった。
 
 そして第2ラウンドでは他の日本選手達もストップウオッチを持って正美を計測
 してくれた。そしてスタート後も相変わらずの強引な走行が皆の目を引き付ける
 中先頭を走り続け、最後の2ラップではかなりバッテリードロップでスピードが落
 ちたものの、多くの選手が超えられなかった29周をマークした。まだまだ始まった
 ばかりだが正美のデビューに多くの観衆が拍手を送ってくれた。 この時始めて
 これが、”いいレースをした時には惜しげ無く賞賛する。アメリカ人気質か?” 
 と思った。

 そして一日目の最終ラウンド、ここでまた問題が...今回のレースでは予選は
 横一列の同時スタートである。従って決勝の様に一番先頭を走行している
 選手がトップと言うことになる。その為に総合順位を上げようと思うと、ヒートでも
 順位を上げなくてはならない。 その為に皆はスタートで先を急ぎトップ争いを
 する。ところが今回のコースはスタート後少しストレートがあり第1コーナーは
 ヘアピンとなっている。ここへ皆が同時に侵入する為に、多くのクラッシュが起きる
 当然イン側の方が有利となる為に皆はスタート位置を右側に付けたいと思う。

 この位置は特に決められていない為に、早い者順となっている。全ヒートが終了
 すると直ぐに助手が位置取り合戦をする。

 勿論、正美も一番右のイン側につけてくれと頼む。私は早くから待機して終了
 の合図と同時に一番右に車を置く。しかしこのヒートでは他の助手もあまり
 急いで位置取りをしないで、トリム調整等をしている。私は楽々と一番良い
 位置に付け待機していると、調整を終えた選手達の車を助手がスタート位置
 置き始めた。そしていきなり私のうしろから、そこの位置をどけろ!と言われた。
 トリニティ社長のプロベッティ氏だった。

 えっ? この位置って決まっているの? 私は状況が良く分からなかったが、
 とりあえず、もう空いている所がなかった為に、一番外側に置くしかなかった。

 レース後マネジャーに尋ねたがそんなルールは無い、これは早い者勝ちだと
 言われた、しかしこれは暗黙のルールの様なものがあって、上位の選手達は
 スタート前にトリム調整等をする為に、スタート位置争いをしない、そして有力
 選手から優先的に位置を決めていく様な慣習があるのだと言う。

 そうかこれが世界選手権なのか? レース以外でも多くの戦いがある事を知ら
 された。この後もルールに無い、多くの世界選手権ルールを知る事になった。

 勿論、正美にも話をしたが正美も納得はしていない様だが仕方が無いね。
 高麗選手等も最終の一番過激なヒートに組み込まれた為に、全く実力が
 発揮出来なかったのは、この慣習のせいかも知れない。 もしトップドライバー
 達に接触でもしたら、大変な事になる...とか思ったのではないか?

 1日目を終わった時点では、なんと10位に入っていた。勿論このまま進むとは
 思ってはいなかったが、とりあえずは全く歯が立たないと言う事では無いと言う事
 だけは避けられたので少しは安心した。

 そして、世界選手権デビューとしては、多くの注目を浴びる事が出来、アピール
 としては十分だと思った。多くの観客等が見知らぬ変な日本人が変な車で速く
 走り、またドライブもかなり目立つ走行の為に興味を示した。

 また色々な人達がピットへ来て声を掛けてくれたが、言葉が上手く通じない
 為に、何を言っているのか?良く分からなかった。私は少し位は英語は話すが
 アメリカ人の英語は大変分かり難く私のレベルでは会話にならない。

 正美も普段もレースの時は殆どしゃべる事は無いが、今回は特に話す事が
 出来ない為に、レース中はずっとコースのどこかに居てレースを真剣に見ていた。
 
 今回は、最初から驚く事ばかりで多くのカルチャーショックを受けた。今まで私達
 がやってきた事とは全く別世界の様に感じた。スピードコントローラーは殆どの
 有力選手はアンプを使用、ボディはアソシのTOJ、バッテリーは振り分けタイプの
 マッチドバッテリー。 そして、タイヤ、トラクション剤、見るもの聞くものすべてが
 新しくビックリする事ばかりだった。

 これらはまさにワークスというより、プロの領域だと感じた。2輪レースでも感じ
 た事だが、これではプライベーターでは全く通用しない。もうこれで世界選手権
 には2度と参加する事は無いだろう。(出来ないだろう。)と思った。
 そして今回は私達が今出来る事を力一杯出して、悔いの残らないレース
 をして帰ろう。と正美と話した。  

 私自身は、もうここまでが限界で、今回のあまりにも大きな差は、もう私達の
 力では克服する事は出来ない。このレースを終了して直ぐに全日本選手権
 があるが、これを最後にRCレースを止めようと思った。

 8月14日 予選2日目

 今日も3回の予選がある、各選手もどんどんと記録を伸ばしてしている。京商
 の松本選手が4ラウンドで29周の正美を上回る記録を出して来た。
 私はもう少しギア比を下げて最後までスピードを落とさずに走れる様にならない
 のか?と色々てテストをした。

 しかしモーター及びバッテリー、そしてアンプ? 明らかに数段劣っている正美は
 とても同じスピードでは8分間走行する事は出来ない。 とにかく省エネ等は
 出来ない為に、コーナーを少しでも詰めて短い距離を走るしか無い。と指示
 を出した。スピードは遅いのはもう慣れている。正美の涙ぐましい程のイン詰め
 走法が多くの人の共感を得た。殆どのコーナーをかする様にインを攻めて走行
 する姿はある意味脅威だったのかも知れない。

 そして最終ラウンドでは、さらに記録を更新し、松本選手の0.1秒差の次に
 着く事が出来た。
 いよいよ明日は予選最終日、あと3回の予選があるが、もう私達に残された
 モーターやバッテリーは数少ない。まず決勝進出は可能性は殆ど無い為に、
 あとの3回で使いきり、少しでも上位で予選を終えたい。

 8月15日 予選最終日
 
 予選ももう残す所あと3回、もうすっかり世界選手権の雰囲気にも慣れてきた。
 相変わらす、大変多くのギャンブラー達が昼夜を問わずカジノで遊ぶ所を通過
 そして、プールでも多くの人達が楽しそうに泳いでいる姿を横目で見ながら、
 会場へと向う。 

 ここまでくると、やはりワークス勢の実力を嫌と言うほどに見せ付けられる事となる
 回を増すごとにどんどんと記録を上げて来る、最初の頃の記録など何の参考
 にもならない。またまわりの雰囲気もどんどんと変り、良い記録が出ると場内が
 大変大きな歓声に包まれる。

 もう我々にはレースには参加出来ない様な大きなプレッシャーを感じる。
 それでも正美は懸命に走り続けた。しかし自己記録は更新する事は出来ず
 松本選手に続き、16位となりBメインとなった。
 私はこの状況下での、この結果は十分に満足だったが正美には不満だった
 様だ。

 8月16日 決勝日

 今日はもう残された決勝Bメインの一回だけの走行となった。世界選手権では
 決勝レースは、やはりAメインのみであとは時間の消化レースの様に感じた。
 Aメインに残れなかった選手はもうこれで世界選手権は終了した様に感じた。
 周りの注目も勿論Aメインの選手やピットに注目が集まる。

 そして決勝の下位メインLメインがレースが開始される。しかしもう勝算が無い
 消化レースと思っていたメインでも、最後のレースとあってチームメンバーや友人
 達の声援を受けてまた違った盛り上がりをみせて、どんどんと進行していった。

 下位メインの間には、メインイベントのAメイン決勝が入る。勿論全ての人が
 このレースに注目をする。このレースには直接関係の無い私達でも、この独特
 の雰囲気に物凄い緊張感を感じた。

 もう一つびっくりしたのは、コースマーシャルだった。通常は前ヒートの選手が
 マーシャルに付くのだがAメインは専門のプロがマーシャルをするとの事だった。
 そしてレース中ではさすがプロと言える素晴らしい救助を見せてくれた。
 
 決勝Aメイン1ラウンドでは J・ジョンソン選手がトップでゴール。
 第2ラウンドは、アンディ・ドブソン選手がトップゴール。

 そして最終のAメインの前に、我々最後のレース、Bメイン決勝が行われた。
 最終レースの前とあって、殆ど全ての人がレースを注目した。
 殆ど実力が同じ選手達のヒート。大きく順位が変ることも無く淡々とレースは
 進み、結局は予選と同じ16位でのゴールとなった。

 最終のレース、Aメイン第3ラウンドは、トニー・ナイジンガー選手がトップゴール
 して3ラウンドすべてが違う選手のトップとなった。

 決勝Aメインの集計は、上位2ラウンドの合計タイムの為に、直ぐには誰が
 優勝なのか?は分からなかった。

 そして暫くして大歓声と共に結果が発表されたのは、トニー・ナイジンガー選手
 だった。そして2位にはジョエル・ジョンソン、3位はマイク・ラバコのアメリカ3選手
 の上位独占となった。

 決勝レースは大変多い観客の為に、レースは良く見えなかったが大きな歓声
 が印象的だった。

 暫くしてコース上にて上位3名の仮表彰式とシャンペンシャワー。
 すべて初体験だった。

 そして夕方より場所を変えてのバンケット。食事を取りながら、全ての選手の
 表彰が行われた。戦い終わって皆和気藹々とお互いの健闘を称え合った。
 これが世界選手権なんだ。と感じる事が出来た。
 
 しかしレースではたった一人の勝者だけがヒーローで、あとはすべて引き立て役
 であると感じた。やはり表彰台の一番真ん中に立たなければ全くの意味が無い
 と思った。しかしこれはとても難しい事で我々には到底不可能な事だろう。


 かくして私達の初世界選手権挑戦が終わった。改めて我々は井の中の蛙で
 あった事を実感して帰国の途に付いた。帰りの飛行機の中では、夢うつつで
 正美が表彰台の一番高い所で、周りからシャンペンを浴びせられている姿を
 見ていた。


 第一回世界チャンピオンの、ケント・クラウスン選手と高麗選手。
 色々とアドバイスをしてくれました。


 コースサイドのピットエリア。 ゆったりとしたスペースで仕事がしやすい。


 奥行きが深く大変大きなコース。 パイロン等が無い為に、ガードに直撃
 すると車が壊れる。 インを攻めるのが大変勇気がいる。












 10日間にもわたる長い世界選手権が終わった。私が想像して世界とは
 全く違う世界だった。 すべてが驚きの事ばかりであった。色々と参考になる事
 は一杯あったが、あまりにも多くの事がありすぎて、頭の中には殆ど何も残って
 いなかった。改めて世界の大きさを知らされた感じだった。

 8月19日帰国、そしてその日の内に新幹線で京都へ...21日には1/12
 全日本選手権の為、車で東京へ向う。



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   1986年 1/12 全日本選手権

  

 
 アメリカ、ラスベガスでの世界選手権での大きなカルチャーショックを受けたまま、
 直ぐに全日本選手権。 しかし私も正美も大変大きな”何かを”得た事は、
 間違いは無い。

 世界の多くのドライバーや要人を見る事は出来たが話す機会は殆ど
 無かった。

 そして全日本選手権、私達にとっては忘れる事が出来ない思い出のレース。


 以下はRCマガジンに私自身が投稿したレポート。


































  





  

     

  

















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 自作車最後のマシンとなった ALF−11 詳細及びALF−10との比較。

 ボディは同じ ABCアトミック 塗装は ”たかたに塗装”に変更。


   

 ボディピンは、無くさない様に釣り糸でボディに貼り付け。


 リア部のガタを少なくする為に、シャーシの幅を広く設定。リアダンパーの角度も
 変更。リアーのサイド部が広がった為にダンパーの角度を広げてたて方向に
 有効な様にセット。


 ALF−10 ではフロントスタビは上部に取り付け。


 ALF−11 では、少しでも重心を下げる為に、下から取り回し。そしてスタビ
 シャフトは、カーボン製。


 リアースタビはつけない。ダンパーはより有効に効かせる為に、前上がりにセット。


 リアーシャーシの可動部には、ボールを入れて動きをスムーズにした。


 リアーシャフトはグラスファイバーから、カーボンファイバーに変更。



 長い長い夏が終わった。



 全日本チャンピオン...長い長い道のりだった。  ついにやった!
 正美がレースを始めて9年、全日本挑戦5度目にて得た勝利だった。
 勿論、何事にも代えられない嬉しさがあった。しかし現実に戻ると心身財共に
 もう限界を超えていた。暫くは抜け殻の様になり何もする気力が起きなかった。

 10月には第1回のオフロード全日本選手権が控えているが、オフロードは何も
 無い、また現状では財政的にもマシン等を揃える事は不可能だ。こちらのほうは
 参加を断念するしか無いと考えた。

 周囲の皆は大変喜んでくれて仲間達の主催でニュー京都ホテルにて盛大な
 祝勝会を持つ事が出来た。 そして50名以上の参加者が高い会費にも
 拘わらず参加してくれた。 我々がここまで来れたのは本当に周りの多くの
 仲間達の支援があればこそ。 と感謝の気持ちで一杯だった。



 しかし時間が経ち現実の戻ると、これからの仕事の事、多くの新たな借金、
 そして正美の将来の事等を考えると大きな不安ばかりだった。

 全日本チャンピオン...我々にとっては大変大きなタイトルであり、またこの世界
 で大変な栄誉だが、一般の人達の評価は大したものでは無い。ラジコンそのもの
 が単なる子供の遊び程度にしか捉えられていない中、チャンピオンと言っても、
 ちょっと大きな運動会の一等賞位の評価しか無い様に思えた。

 これで今後の仕事が上手く行き収入が増える等とは到底考えられなかった。
 ラジコンのショップでは、レ−ス活動はおろか食べて行く事さえ難しい状況だった
 為に、私は妻と一緒に義兄の経営するファッションバッグの製造も兼業して
 いたが、こちらはブームにもなり大変忙しくなって来た為に、これに専念して、もう
 RCレースは止める事を考えた。


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全日本選手権で優勝し、ALFの製作は終了した。翌年1987年の
 全日本選手権からは、アソシエイテッドの12Lを使用する事になった。









  Vol−102 へ つづく...




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