廣坂 物語


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

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  Vol−21

  大きな転機そして、オフロード全日本選手権

 世界選手権及び全日本選手権を予想以上の好結果で追え、やっと一息
 つけるようになった。この頃から周囲の状況が大きく変化を始めた。正美も
 来年は高校を卒業する歳となった為、多くのメーカーから正美の就職への誘致
 が出てきた。

 私は世界選手権までは、もうこれで本格的なレースへの参加は止めようと
 思っていた。これ以上続けると今度は本当に廣坂家は破綻してしまうと
 思った。しかし、正美の世界チャンピオン獲得により、状況は一変した。

 ここまでの努力がようやく実り、幸運にも世界の頂点に達する事が出来た。
 そしてここで引き下がるのでは無く、もう少し前進をさせてやりたいと考えた。

 10社以上の会社が正美の卒業後の就職の打診をしてくれた、しかし正美は
 操縦以外は何も知らないし、マシンのメンテやセット等も全くした事が無い為に
 メカニックが居なくてはレースに参加する事も出来ない。 色々な会社と話を
 したが、まだまだレースのプロ等と言うポジションは無く、すべて社員として働き、
 レースにも参加するという事だった。

 状況から考えると、やはりHPIが一番有力だったのだが、こちらもまだ会社を
 設立したばかりで、現段階では正美を抱え込む事は難しいと言う話もあった。

 我々は色々と検討した結果、現段階では正美は就職させずに、学校へ
 行かせたつもりで、もう少し頑張って何とか自分達でやって行こうと決めた。
 チャンピオン獲得により、多くのメーカーからのサポートを受ける事も出来る為に
 費用も軽減する事も出来、また新しくマシン等も製作販売すれば、以前より
 少しは良くなるのではないか?と考え結論としてすべての正美の就職への依頼
 はお断りをした。

 その後も多くの会社からの打診はあったが、すべて我々の意向を話しをして
 就職はしなくても、可能なら色々な面での援助をお願いした。

 そんな中、突然ヨコモの横堀氏(当時は所長)より連絡があり、京都へ行くとの
 事、私はもうすでに何度もお断りしている為に我々の方針は変らないと話を
 したが、とにかく会いたいとう事で面談をする事となった。

 夕方に京都に来られて、近くのファミリーレストランにて、ママ、正美、と4人で
 夕食とりながら話をした。何度もの勧めにも我々は頑なに、お断りを続けた。

 長い時間が絶ち、正美はその場で横になって寝てしまった。そしてもう午前1時
 を過ぎ、そろそろ帰らないと...突然横堀氏は、分かりました正美君の事は
 諦めました。では、お父さんはどうですか? ヨコモで働いてみませんか?勿論
 正美君と一緒に...そうすれば正美君ももっとよい環境でレースを続ける事が
 出来、お父さんも車等を作る事も出来ますよ。そして私もマニアです。二人で
 夢を追いませんか?

 えっ? 私達はびっくりした。私が?? 今までは多くの会社からの提案は正美
 だけで、私の事等考えた事は無かった。 私を使ってくれるのですか? はい、
 お父さんと正美君の二人が来てくれれば最高です。

 これを聞いたママは即座に、あんた行きなさいよ! 絶好のチャンスじゃない。
 しかし私には現在の兄の仕事や、母親、光美の事もあるし...そんな事は
 どうにでもなる、後の事は私が何とかする! こんな機会はもう二度と無いかも
 知れない。

 分かった、じゃよろしくお願いします。と即決してしまった。 そして正美を叩き
 起した。 正美、パパと二人でヨコモへ行くぞ! 正美...???
 何が何だか分からないままに二人の就職が決まってしまった。

 その後会社への訪問や様々な打ち合わせを行い正式に決定をした。この時
 に正美の条件としては、両親が決めた事なので自分は従います。しかしまずは
 約束は10年間として下さい。この先 どのような事になるのか?自分でも
 分からない。とりあえず10年務めてその時点で再度検討をしたいとの事だった。

 そして1988年4月入社を目指して身辺整理等を開始した。色々と勧誘して
 もらったメーカー、そしてこれまでもサポートして頂いたメーカー等にも私達の
 決意を話して協力を依頼した。いずれも快く了承して頂いた。

 そして一番大きな壁はこれまで色々と私達の面倒をみて、将来の事まで考えて
 くれていた、義兄の説得だった。性格的にもとても頑固で一筋縄では行かない
 と覚悟はしていた。その為になかなか切り出せなくていた。 しかし何時までも
 黙っている訳いは行かない。 ママを始め同じ職場の皆も、自分達も応援する
 し、仕事は皆で頑張って障害が出ないようにすると言ってくれるという。

 そこで私は意を決して話をする事とした。そして家へ行き義兄に切り出した。
 私は今の仕事を辞めて、東京へ行きたいと思っていますが...怒鳴られると
 思った。しかし義兄は、そうかそれは良かった、頑張れよ! 私...???
 怒らないのですか? 怒るわけは無いじゃないか、自分達がそれで上手くやって
 いけるのなら一番良い事だ、また我々は家族も少ない。皆が同じ一つの仕事
 をしていては、もしダメになればすべてがダメになってしまう。
 それより他の仕事をしていたほうが、お互いに助け合う事が出来るかも知れ
 ない。 と言ってくれた。

 そして同じ行くなら、ママ、光美も連れて行け、と言われた。しかしもし二人が
 抜ければ現在の仕事は進まなくなってしまう。そこで私は当面は正美と二人
 で上京し、東京で受け入れ態勢が出来れば、家族を呼び寄せる事にした。
  
 しかし、私の母そして光美は東京へは行きたく無いと頑なに拒否した。まあ
 当面は二世帯で様子を見ようと言う事にした。

 そして上京までの約半年間は、サクラサーキットの閉店、そして義兄の仕事の
 申し送りや後始末等で以前にもまして忙しい毎日となった。

 そうした中10月にはオフロード全日本選手権の参加が決まった。この時には
 すでにヨコモへの就職が決まっていたのだが、今までのサポートのお礼として、
 4WDはシュマッカーを使用する事とし、またチームもHPIとしての参加となった。
 我々としては、せめてものささやかな、お礼とお詫びのつもりであった。

 そして第2回オフロード全日本選手権を向える事となった。 このレースも
 事前にあまりにも多くの事があり、考えなければならない事が一杯であった為に
 レースの内容等については、殆ど覚えていない。ただ台風の影響でコース情況
 が非常に悪く、コースに行くのに長靴が必要だった事を良く覚えている。








  1987年オフロード 全日本選手権


  



   














  



   




  
  
  


   
   
   
   
   
















  

  

  

  

   
   
   
   



  こんな写真が出てきました。






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